誇りある
ローカルゼネコンを
目指して

蜂谷工業株式会社代表取締役社長

TAISUKE HACHIYA
――100周年という大きな節目の年を迎え、どんなお気持ちですか。

蜂谷:大変ありがたいことです。感謝をしています。企業30年説がある中で、100年というものに関しての重みというのがあると思います。ひとえに、支えていただきましたお客様、当社の先人・先輩たち、また協力会社の皆さまのおかげで今の我が社があると思っています。そして改めて自分の肩に掛かる部分が大きいと思っています。創業100周年の事業を始めるにあたり、一宮に眠る両親と祖父へ報告に行きました。100年を迎え、これからこういう事業を行い、さらにまた100年頑張っていきますと、そんな話をお墓の前でしました。

――社長を拝命なさって15年になるんですね。

蜂谷:そうですね。いろんなことが思い返されますが、決して楽な時ばかりではありませんでした。私は、オイルショックを経験していませんので、近々で大変だったのは、やはりリーマンショックでしょうか。バブルの崩壊により景気が大幅に落ち込んでいきましたけれど、その時は比較的ゆるやかなスピードで落ちていきました。しかし、リーマンショックの場合は、鋭角に落ち込みましたので、その分、余波が大きく、非常に厳しい状態になりました。
 ただ、そんな中でも、「社長、そうは言っても我々も頑張りますから、一緒にやりましょう。」と言って社員全員で支えてくれました。そういう支えがあったからここまで来られたんだと思います。そういう意味で、ただただ感謝ということしかありません。この社員のためにも、まだ見ぬこれから入ってくる若い社員たちのためにも、この企業を何としてでも存続し、発展させていく。そして次の100年も、立派な会社、世間から尊敬されるような会社にしていく。これが、私に課せられた役目だと思っています。

――この先の100年はどんな展望をお持ちでしょうか。

蜂谷:私は、目指すは「誇りあるローカルゼネコン」と言っています。以前私が働いていた会社は、売上高1兆5000億円を超えるスーパーゼネコンでした。卓越した技術者が大勢いて、日本一、世界一の仕事をしていました。大変素晴らしいことです。しかしながら日本の産業の9割以上を支えている地方のステージにおいて、体を張って、地域のために行っている仕事も同じように、大変素晴らしい仕事だと私は思っています。
 例えば建設業の一つの役目として、災害が発生したときや大雨のときに当社が出動する。そして、後日どこかで「蜂谷工業の人が飛んできて助けてくれたな」とか、「町をよくしてくれたな」とか、一言でも二言でも人々の口からそんな言葉が出てくる、そんな会社であれば、私はもう大満足です。そうすれば、社員も喜んでくれると思います。自分たちの子どもに、「うちのお父さん(お母さん)が行っているところはいい会社だ」と誇れる、そういう部分において地域で1 番になりたいと思います。
 これは、あるときに私が決めた自分の信念です。昔、東京支店があり、大阪にも支店を出したいと思っていた時期がありました。岡山に帰ってきて、社長になる前までにいろいろ模索をしていた時期がありました。でも、ふとそういうことだけが生きる道ではないなと。地域で愛されるゼネコンになれればいいじゃないかと思ったときに、会社をひたすら大きくするという考え方が変わりました。会社をよくしていき、立派な会社と言われるところに力を注いでいきたい。今は、そこからぶれずに一生懸命努力しています。まだまだ志半ばではありますけど。

――すごく社員さんにもよいお言葉だと思います。クライアントさん、お客様、それから会社を支えてくださっている岡山、もしくは支店の地域の方々、そういった方々へ何かおっしゃることはございますか。

蜂谷:「お客様が第一」というふうに常々話をしています。我が社の経営理念、経営方針の根本は、いわゆる近江商人の「三方よし」という考え方になっています。1番目がお客様、2番目が我が社、3番目が地域社会になっています。まず、お客様に喜んでいただける仕事をするのが、一番の目的です。お客様の商売が繁盛する姿を見て、ああよかったなと感じる。そして、我々も会社を発展させていただき、全社員の待遇がよくなる。さらに職人さんも一緒に育っていき、地域社会も良くなる。こういう流れで仕事を続けていく。私たちにかかわるステークホルダーの方に対して、私はこのように考えています。
 特別なことではありませんが、とにかくお客様が困ったときに飛んでいくのが、誇りあるローカルゼネコンとしての役目だと私は思っています。7~8年ぐらい前から、弊社は「24時間365日対応します」と宣言しています。ゼネコンでは珍しいと思うのですが、マグネットシートに電話番号を入れて皆さんに配って、「いつでもいいですから電話してください。必ず社員が出ますから」ということをお伝えしています。
 しかし、当時は社内で随分抵抗がありました。何でそんな夜中に跳び起きていくんだ。おかしいじゃないかと。
 災害復旧に出るというのは分かるけれども、お客様のために24時間対応といっても、それは限度がある。我々も生活があるという反対がありました。
 私のこの決断にはあるきっかけがありました。ある医療・福祉の関係をされている施設で、年末に建物のトラブルがありました。会社に電話をいただいていたのですが、会社は年末年始のお休みをいただいていました。留守番電話になっており、何度も電話していただいて、やっと社員が気付いて対応したのが、1 月の元旦過ぎでした。もちろん、年末年始はメーカーも建材会社も休みですので、すぐに不具合が直せるかどうかは分かりませんが、対応という意味でファーストコールが取れなかったわけです。
 私は、後日お客様に「私どものまったく勝手な都合で、年末休ませていただいておりました。大変申し訳ございません。」と謝りに行きました。そのときに、「私たちは24時間365日施設の運営をしていますと。お客様第一だとか、口ではいいことを言うかもしれないけれど、飛んできてくれないじゃないですか。私たち医療の現場で、1 分、1 秒遅れたら人は死にますよ。社長さん、代表として来られて、それで恥ずかしくないですか。」と言われたのです。
 そのときに、私はものすごく反省し、悔い改めなければいけないという念に駆られて、ずっとそのことを考えていました。24時間365日対応は、当時ゼネコンではやっていないことでしたし、社員にも負担をかけます。でも、みんなにそのエピソードを話して、「私たちは地域でやってきて、誇りあるゼネコンというからには、この声に耳を傾けないと我々の存在価値はないのではないか。」と私の思いを伝えて、理解してほしいとお願いしました。一人で負担するのは大変です。夜対応する人は順次交代してもらって、精神的な負担がないように、ということも話し合いました。おかげで今は理解してもらえ、一生懸命頑張ってくれています。私が、自分の世代の中でお客様に対して大変申し訳ないことをした一つのエピソードです。

――そういった対応をなさって、反響というか、お客様からはどうでしたか。

蜂谷:喜んでもらえました。住宅会社なんかは、割と早くそういう対応をされていましたが、残念ながら我が社は、お客様のためにという意識が薄かったのだと思います。お客様から「ありがとう」と言われ、結果として、今後も何かあったら蜂谷さんに相談すると言ってくださった方もいます。私自身は自分の思いとこだわりでやり始めたことで、仕事を増やすことを目的にしていたわけではありませんでした。しかし、結果として、増えたことは非常にありがたいことです。お客様に満足していただくという目的が達成されたことが大変うれしく、今後も続けていきたいと思っています。

――社員の皆さんの意識も変わったりはしましたか。

蜂谷:そうですね、少しずつという感じでしょうか。これは建築の話なので、建築部の人は苦労もあるし、感激もある、喜びもある。ですが、部門が違うとなかなか全員に伝わりません。
 一方土木部は、災害復旧で大雨の真っただ中に、土のう袋や発電機を積んで、夜、川のそばまで車を運転して行って、待機します。何かあるとそこで活動するのですが、それは夜も昼も関係なく対応しなければいけません。建築の人たちは、そういう経験があまりないので、災害復旧に関してはあまり分かりません。それぞれの部門によって大変さが違います。

――蜂谷工業の強みというか、これだというのを一言で言うとどういうことになりますでしょうか。

蜂谷:「誠実で真面目な技術集団」でしょうか。私の遺伝子の中に創業者の蜂谷初四郎の遺伝子が入っていると思うのですが、祖父が非常に誠実を重んじ、かつ質素倹約と明治の人らしく、気骨精神がありました。そういう昔の気質を、いくらか見て育ったり、そういうところなのではないかと思います。

――ありがとうございました。

2016年7月8日収録
聞き手:山川隆之/吉備人出版